1/20/2010

道徳的・不正感に対する怒り

http://www.option.org/media.php?mediatype=video&mediaid=1&part=2

Strength without Anger Part 3-4:

ナスリーン!質問をありがとう。さて、さっきも少しふれた内容ですが、それについて、ナスリーンは暖かく、不明瞭な質問をしています。

誰かが他の人を殺したところを見た場合、どのようにして怒りを感じないことができるのでしょうか?

さて、この種の極端な質問をよく受けます。私は笑ってしまうのですが。

私たちは、これを見ている皆さんも含めて、常に、毎日の状況で誰かが誰かを殺すところを目撃するのでしょうか?そのたびに自分の怒りをどうするかを考えなければならないのでしょうか?それがあなたの深刻な状況ですか?

そうじゃないでしょう?それで、まず、このような状況に、私たちのほとんどは生涯居合わせることはないでしょう。何人かは見るかもしれない。でも、ほとんどは見ない。そして、見る人も、毎日は見ない。そういったうえで、確かに、ニュースを見ていれば殺人の話題が出てくるでしょう。たぶん毎日聞くかもしれません。それでは、答えはこれです。誰かが誰かを殺した時怒らなくていい方法。

怒りの欠如は、受身の状態ではありません。全く受け身になったとして皆心配になります。恐怖感を覚えます。それによって大量殺害を容認するのではないか、と。怒りがなければ何も変えられない、止められない、と。端的に言って、実際起こっている事実はそうではありません。たとえば、ある僧侶は、お寺で修行していて、周りで人殺しが起こっているような場合があるかもしれません。その人の周りで暴力が起こっているがその人はじっと座っているだけ、という場面があるかもしれません。それを見て、誰もが、「いやだ。私は何か行動に出る!」と言うでしょう。「いいでしょう!」私たちが一緒に取り組みをした人々は、ほとんど、いや、全て、ここへきて日常的に「怒り」を捨てた人々は、より予防的で、受動的であることはより少ないです。また、彼らは、どのように反応するかについて明確な考えをもっています。

それで、人殺しの場面で怒りを感じない方法ですが、あなたが望みを明確にすること。誰かを傷つけてほしくない、ということ。そして、変えていくのが必要で、そのための助けとなると考えられる有益な行動をとること。瞬間的には、凶器を持っている人にタックルして飛びつくとか、ができます。ニュースで殺人の話題が気になれば、犠牲者にお金を送るとか、逮捕に協力するとか、平和と非暴力を擁護する団体に寄付するとか、なんでもできます。ただ、ポイントは、その中に怒りを挟み込むこととは関係ないのです。受動的なのが心配なのですか。たぶん、こういう事だと思いますが、「そんな状況に面して怒りを感じないとしたら、私はなんていう冷酷な怪獣かしら!!(人間であれば怒りを感じるべき!)」人が銃で撃たれたり、人が飢え死にしたり、戦争とか、不正とか・・・道徳的で思いやりのある人間として、怒りを感じないことがあろうか!!

このような道徳的・不正感を使うとき、大変これを重く感じます。また、「値する」感も同じです。「こんなことがあってよいわけはない」という。では尋ねます。私たちの思いやりや人間らしさは、愛は、同情は、暴力の前で、怒りの代わりに表すことができないのでしょうか?

人殺しを目の前にしてどのようにして怒らずにいることができるか。議論が多い問題発言でしょうが、言います。

人殺しを目の前にして怒ることによって、より人殺しや暴力を助長します。

あなたの感じる怒りと、殺人者の怒りは、おなじエンブリオから来ています。殺人者たちは、ただ好きで殺しているのではありません。彼らは怒っているから。間違ってる!と信じているところからその怒りはくるのです。彼らは間違っていると認知したことに対して「怒り」を発動しているのです。我々が殺人に「怒り」を感じれば、殺人を助長している。という端的な図式です。それで、殺人を目の前にして、どのようにして怒らずにいられるか。それを解決するのは「怒り」だ、という信仰をやめるのです。あなたの思いやりを示すために「怒り」を見せるのをやめる。あなたは道徳的で思いやりがあることを愛と安寧を使って示す。そして、愛する時、受動的であるかわりに、活動的で行動的である。怒らないということと、受動的であるという事は等しくありません。

さて、フランツィーンからの二つ目の質問です。恐怖感が私たちの力をしのいでいて、望みへと向かう私たちを止めてしまうとき、どのようにして恐怖感に力を注ぐのを止めることができるか。恐怖が自動的に発動してしまうのをどのようにして止めることができますか。

フランツィーン・・・自動的に発動するって?まさか言ってないよね!恐怖感は自動的に発動しないよ。ただ、そのように見える、かもしれない。さて、出発点としては・・・これはフィアレスというプログラムで話しますが、もし、恐怖感と向き合っているなら、フィアレスのプログラムが最適です。なぜなら、恐怖感のあらゆる側面を小さく刻んでいきます。これは多くの私たちのプログラムの中でも最も複雑な作業です。恐怖はどのように作用するか、我々はどのように恐怖感を使っているか、それは、怒りと同じく、自分自身を管理するために使われています。怒りとは違う使われ方をしますが、これにも戦略があります。これも自動的に発動するのではなく、我々が自分を管理するために自分に課していることなのです。

それで、出発点はそこです。まず、よくその存在を認めるということ。恐怖はあなたが行っていることで、起こってしまうことではないのです。

次の段階は、冗談抜きで、ゾーイに電話して、フィアレスのプログラムに登録してください。また、ウェブサイトに行けば多くの素晴らしい情報があります。

前の話に戻りますが、フィアレスのプログラムでは、恐怖感をあらゆる面から分析して理解していきます。そして、それを捨てることもできるようになります。人々がこのコースで恐怖を手放していく様は大変すばらしいものです。

フランツィーンの質問ですが、恐怖は私たちの力をしのぐことはない。恐怖は自分に向ってやっている。そして、面白いことに、「恐怖が私たちを望みに向かわせるのを止めてしまう・・・」と言っていますが、恐怖はあなたが望みへ向かうのを止めないし、止めたことはありません。一度も!恐怖はあなたの望みのものをくれる。あなたは恐怖を使って何がほしいのか、を考えてみて下さい。手に入れるために恐怖を使っている。恐怖は問題ではない。恐怖は解決策である。怒りも問題ではない。怒りは解決策である。ここで解決策であるというとき、私たちの推奨する解決策ではないし、この方法を使うように教えていませんが。しかし、人々が怒るとき、それは問題ではなく、解決策のために設計されたはずだった。自分を管理するために。

あなたが怖いと感じるとき、それで解決をもたらそうとしている。あなたの行動を変えようとしている。誰かの行動を変えようとしている。それで、恐怖はあなたの望むことを止めたりしない。恐怖はあなたが欲しいと思っているなにかを与えてくれる。カギとなるのは、それがなんであるか、です。私がいつもお勧めするのは、皆さんが不幸感をもつとき、その不幸感からの利益は何か、それで何を得ようとしているのかを考えてみることです。それを探すことによって次の段階に行くことができます。どんなに考えてもわからなければ、最後に恐怖感や不幸感を味わった時のことを思い出して、どのような行動をしたのかを考えてみて下さい。一週間前とか一か月前とか、どのような態度になったのか思い出して下さい。その態度の中で、自分の好きな部分は何なのかを見るのです。全部ひどかったよ!と思うかもしれませんが、必ず、その中に好きな部分があるはずです。それがなかったらもうやらないはずなのです。かならず、何らかの報酬があるのです。それを考えるのがフランツィーン、あなたの出発点です。そして、フィアレスのプログラムに来れば、あらゆる恐怖を分解します。そして克服できるようになります。

さて、時間が来ました。良い時間でしたか?良かったにしろ、悪かったにしろ、あなたのチョイスですからね・・・。私は大変楽しかったです。多くの質問を下さり、ありがとうございました。
最後のまとめとして、怒りなき強さは、まず、最初に気を楽にすることから始めます。気を楽に、幸福感をもって、そして情熱的になる。それがあなたが最も力強くいられる立場です。